岡田茂吉師
自然農法に関する論説(抄)

(1998年4月25日改定)

2.自然農法の技術面

 私は自然農法の原理だけを、教えたので、技術面の方はみんなの方で工夫するということになったのです。

(御教え集27号 1953年10月6日)


 本当を言えば、自然農法に於ては指導者の必要はないのである。何となれば私の説をよくかみしめれば、それで充分解る筈だからである。そうして不徹底な人の多くは技術面に関心を持ちたがるが、本農法に限って技術はたいして重視する必要はない。常識で考えただけで沢山である。何よりも此原理の根本は、肥毒を早く消滅さして、土自体の性能を発揮させればよいのである。
(栄光163号 1952年7月2日)


 報告を読んでみると、従来の農耕迷信が、仲々抜け切らない事をよく物語っている。其根本は何といっても、自然を無視したがる事である というのは水田の水分が多いとか少ないとか、色々な事を心配するため、余計な事をして、反って成績を悪くするのである。(中略)処が我自然農法の原理は、実際と遊離したものではなく、実際と抱合っているのであるから驚異的成果を得るのである。
(栄光163号 1952年7月2日)


 土地によって非常によく育つ所、つまり暖い所、それからごく寒冷地というところは、種を蒔く時期も早くするとか遅くするとか、それは適宜に土地の状態に応じてやればいいのです。よく、あそこでこういうやり方だから、それに習おうと言ったところで長く作った所は肥毒が非常に多くしみ込んでますから、そういう所は無肥にしても、肥毒をとるのに年限がかかるわけです。
(御教え集19号 1953年2月25日)


 自然栽培のやり方というのは、一番手数がかからないで楽なのです。それがいいのです。どうも人間は面倒臭い事や、ややこしい事をしたがる観念がありますが、そのために成績が悪いのです。ですから一番手数がかからないで楽なやり方ほど良いのです。
(御教え集19号 1953年2月27日) 



 土を生かし、土の力を強盛にする為には連作する程、その野菜に対し土はその野菜を育むべき適応性が自然に醸成さるるからである。

(地上天国1号 1948年12月1日)


 土の活力と言うのはね。肥毒の抜けた土で、何度も作っていくと、年々作物をよくする様な力が出ていく。それは五年以上でなければならないが、そうなれば今の倍位は何でもない。だから、連作でなければいけない。連作だと、そう言うのは段々良く育って来る。

(御垂示録5号 1951年12月8日)


 一つ物を作ったら段々穫れて来ます。それに対する土がそれを要求する精分が出来て来るんですから、うんと出来ます。

(御教え集7号 1952年2月15日)


 土というものは変化するのです。という事は、米なら米、豆なら豆と一つ作物を連作すると、それに対する土の性能が発達するのです。だからその作物を育てる性能がだんだん強くなって来るわけです。――これを分りやすく言うと、年々土の養分が増えてゆくわけです。――神様は土も稲もチャンとそういうふうに作られているのです。

(御教え集27号 1953年10月17日)


 今まで連作を嫌ったのは、肥料の害を受けている土だから連作はいけないと言っているのです。これが一番分りいいのは、薬です。特に胃の薬ほど分りますが、一つ薬をのんでいると効かなくなります。そこで薬を変えると一時効くのです。というのはその成分に対して体の方が、つまり抵抗力と言うか、慣れてしまうので効かなくなるのです。

(御教え集26号 1953年9月25日)


 毎年やっていると土が熟練してきて、その性能が増してくるのです。ところが折角熟練工になった土を、たまたま肥料をやったりしては、元の木阿弥にしてしまうわけです。

(御教え集26号 1953年9月16日)


 世人は堆肥にも肥料分がある様に思うが、そんな事はない。

(栄光79号 1950年11月22日)


 本当は堆肥もいけないのです。堆肥なしの土ばかりがよいのです。堆肥が土を邪魔するのです。前にも書いたとおり、土というものが肥料の固まりなのです。それで堆肥をやると、土の肥料がそれだけ減るのです。

(御教え集25号 1953年8月27日)


 藁を使う事は廃めた方がいい。何よりも土以外の異物は決して入れないようにすべきである。

(栄光245号 1954年1月27日)


 大体堆肥ですが、私は最初は「無肥料栽培」でやったのです。堆肥もいけないのです。ところが全然無肥料でやっては法規に違反するというのです。それは進駐軍の方なのです。それで投書か訴えをした者がいたのです。やっぱりアメリカ人も全然肥料無しだったら米はとれなくなる、そういう宗教は禁止するという事なので、これは何んとかしなければならないというので、名前を「自然栽培」としたのです。――そういうわけで堆肥はやってよいという事になったのです。それは金肥、人肥よりはずっと被害が少ないです。しかし今日になればもう本当の事をやらなければならないので、去年(1952年)あたりからは堆肥もいけないという事を言うようになったので、本当はいけないのです。

(御教え集27号 1953年10月26日)


 堆肥の効果は土を固めない為と、土を温める為と今一つは作物の根際に土乾きがする場合、堆肥を相当敷いておくと、湿り気が保つから、乾きを防ぎ得るという。以上三つが堆肥の効果である。

(栄光79号 1950年11月23日)


 赤土系の土は固まるから、それではいけないので、固まらせないために最初の二、三年でよいから、堆肥をよく腐らして混ぜるというそれでよいのです。

(御教え集27号 1953年10月26日)


 藁が肥料になるんでなくて、唯根を温める丈だと言う事が書いてありますね。だから、極く寒い所ですね。――東北地方のね。――そういう所は、温めるのに藁をやる必要がありますがね。その他の所はやる必要はないです。

(御教え集9号 1952年4月17日)


 土が天日で乾きますが、日当りの良い所は土が乾きますから、土の湿気を保たせるために堆肥をやりますが、これは木の葉でも何でも、湿気を保たせる目的でやるのですから、腐らせなくてもよいのです。果樹などは特によいです。水分を保たせるために落葉を厚くやりますが、それはよいです。堆肥というのはただそれだけのものです。

(御教え集25号 1953年8月27日)


 自然農法に失敗は決してない。もし失敗があったとすれば、それは今までの肥毒が残っているためである。

(栄光97号 1951年3月28日)


 土の良い悪いであるが、これも余り関心の要はない。何故なれば悪土でも無肥なれば年々良くなるからで、連作を可とするのもこの意味である。

(栄光198号 1953年3月4日)


 自然栽培に於ては一般に使う種子なら何でも結構である。つまり肥毒さえ抜ければどんな種子でも、一級以上の良種となるからである。「要は肥毒の有無であって、」信者中から何年か経た無肥の種を貰うのが一番いいであろう。その場合種子も近いほどよく、県内くらいならいいが、相当離れた他県などでは成績が悪いから止した方がいい。

(栄光198号 1953年3月4日)


 除草は問題ではない。良いと思う時にすればいい。無肥料になると草の生え方が違う。米の成長する力が強くなるから雑草の生える力が弱くなる。神様は人間の生命を保つものには、強い力を与えている。故に無肥料になると除草が楽になる。

(御垂示録1号 1951年8月5日)


 畑の方が、自然栽培は水田よりも余計効果があるんですよ。というのは、水田の方は大雨が降ったりすると、荒れますから肥毒が流れるんですよ。処が畑の方は肥毒が流れないから害をするんですよ。そこで畑の方が水田よりも一層効果がある。

(御教え集9号 1952年4月26日)



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