芸術 各論

自観画論

私は、熟々現在の美術界、特に絵画の世界を観ると、実に歎かずには居れないのである。それは絵画というものの、本当の在り方を画家自身が、全然弁えていないようである。勿論種々言いたい点があるが、その中の最も重要であり乍ら、案外気の付かない一事を、茲にかいてみようと思うのである。

先ず、絵画というものの本来の使命である。それは絵画そのものの本質は、単なる画家自身の娯しむだけのものではない。

若しそれだけで事済むとしたら、子供が玩具を弄んでいるのと、何等変りはあるまい。だからそういう画家としたら無用の存在であって、穀潰し以外の何物でもないと言えよう。従って画家たるものは、自分は何が為に生れ、何を為すべきかと言うことを、シッカリ自覚しなければならない。それに就て私はこう思うのである。

先ず画家としての存在の意義は何であるかというと、一人でも多くの人間の、目を娯しませると共に、目を通して観者の魂を向上させる事である。心のレベルをより高く、より善に、より美しくする、それが真の画業である。成程、個性の発揮も、製作意欲の自由も、題材もいいが、その線を越えては、何の意味もなさないのである。処が近来の絵画を見ると、其脱線振りは、到底黙視出来ないものがある。心ある人は眉をひそめている通り、実に怪奇極まるもので如何に贔気目にみても、何等の美も見出だせず、醜悪そのもので、寧ろ不快を通り越して、憤りさへ感ずるのである。

此様な絵を、得々として描く彼等の観念は、個性を表わすというよりも、主観の押売りである。此様な絵を並べた処で、観る者の魂の向上処か、反って逆でさえある。吾々はそういう絵を観る毎に、カンバスと絵具の勿体なさに身の縮む思いがする。之は独り吾々のみではあるまい。勿論売れる筈もないから、彼等自身としても、経済的窮乏に追われているとは、よく聞く処である。としたら何等世の中に貢献する処もなく、自己も苦しんでいるという、全面的マイナスを考えたら、気の付きそうなものだがそんな事は一向ないらしい。としたら一種の精神病者としか思えない。斯ういう画家は何の為に生きているのか、御自分でも解らないだろう。実に存在の空虚なる憐れむべきである。

もしか今の内に目醒め、軌道に乗らないとしたら、誰も相手にする者はなくなり、滅亡の一途あるのみであろう。右は洋画に就てであるが、之は誰も同感であるとみえて、よく非難の声を聞くが、之に就て誰も気付かない一事を私は言いたいのである。というのは本来絵画の真の生命は、品位であり、高さである。処が東洋画は多分にそれが含まれているが、洋画に到っては寔に少ない処か、殆んどないと言ってもいい。尤も洋画自体は大衆性のもので、大衆生活とは離れられない性格のものとしたら、致し方ないが、然し洋画は洋画としての独特の旨味がある筈である。処が、最近の洋画に至っては、レベルが高いとか低いとかの話ではない。最早美の生命など、疾に失って了って空ッポーでしかあるまい。その絵から受ける感じは醜悪そのもので、不快、憎悪、憤怒、失望以外の何物でもないと言えよう。どう考えても此種の画家は、一種の精神変質者である。だから此種の展覧会を観る毎に、私はもし精神病院で、患者の展覧会をしたとすれば、此通りに違いないと思うのである。

次に、日本画に就ても少し言いたいが、近来品位の乏しくなった事は、之にも言えるが、由来東洋画の特色は品位である。私はいつも、支那、日本の名画に触れる時、其高さに打たれて、自から頭が下るのである。此東洋画の真髄に対し、今日の日本画家は、殆んど無関心である。只僅かに老大家に残されているだけで、青年画家に至っては、寧ろ洋画に追随している傾向さえ多分にある。寔に危うい哉というべきである 此点、私は今の内に目覚めさせなければならないと思い、将来が案じられてならないのである。

茲で、日本画、洋画に限らず、凡ゆる芸術を引括めて言いたい事は、芸術というものの真の意義である。それは言う迄もなく、人間の智性を深めるのは勿論、眼を通じて作者の魂を観者に伝え、其魂を高い境地へ導く事である。只目を楽しませるだけとしたら、サーカスやストリッパーと同様で、芸術ではない。勿論美術家も、文学者も、音楽家も、演劇、舞踊も、その他の芸能人に就いても曰えるであろう。どこまでも芸術を通じて大衆の心をアッピールし、人間に内在する獣性を少しでも抜く事である。文化性をより豊かにする事である。それ以外芸術の存在理由はあり得ないのである。としたら何よりも其客観性である。客観性が多い程芸術的価値があるのである。どれ程御自分だけで素晴しいと思っていても、世間に通用しないとしたら、不換紙幣でしかない。彼等の所謂個性の発揮も、悪い事ではないが、それだけでは主観を押付ける一種のファッショである。何としても大衆と共に娯しむものでなくてはならない。昔から名人巨匠と言われる人の作品をよく見るがいい。彼等の芸術が如何に範囲が広く、識者も大衆も娯しませ、魅了させずにはおかない其神技は、今日見ても躍如としている。

次に言いたい事は、現在の日本文学である。遠慮なく言えば、其レベルの低過ぎる事である。只管大衆に迎合し、低俗な時代風潮に乗り、流行作家となってヤンヤと言われればいい、理想もヘチマもない。映画になって儲かればいいというだけで、それがよく作品に表われている。読む間、見る間只面白かったと言うだけで、何にも残らない。只味だけで栄養のない食物と同様だ、一時的興味を満足させる見せ物である、斯ういう低劣極まる芸術が、如何に大衆の品性を下向させ、犯罪の温床とさえなりはしないかと、心配するのは吾等のみではあるまい。といっても偶には社会の欠陥を剔出し、問題を抛げかけるものや、作者の主張を訴えるものもないではないが、日本のそれは如何にも薄ッペラで小さい。真に読者の魂を揺り動かす程のものは見当らない。というのは、日本の文学者階級に、何よりも宗教心が欠乏している事が、其原因と思うのである。

そこへゆくと彼のシェークスピヤ、トルストイ、ユーゴー、イブセン、バーナード ショウ等の大作家の作品である。実にスケールの大きさと言い、鋭い文明批判や、革命的思想、宗教的正義感等が滲み出ていて読む者の魂に迫るものがある。その時代は固より、今日に至る迄大衆の魂を掴んでいる。その力こそ芸術の高さでなくて何であろう。

以上は、思いついたままかいたのであるが、此私の説の幾分なりとも、芸術家諸君に於て、受入れられる点があるとしたら、満足である。

栄103 1951年5月9日
尾形光琳

私は若い頃から絵が非常に好きであった。そうして古今を通じて私の一番好きな画家は何といっても彼の光琳である。光琳派の中では光悦も宗達も光甫も乾山も、それぞれ良い処はあるが、何といっても光琳は断然傑出してゐる。彼の絵ほど簡略にして而もその物の実態を把握し得てゐるものは類がない。彼は全然物体の形を無視してゐて、而も物体の形を忠実に表現してゐる。恰度千万言を費すとも人を動かし難い所を三十一文字の和歌の力が動かし得るのと同様である。そうして私の最も驚異とする所は、それ迄の日本画が支那伝来の型に捉はれてゐたのを、彼は思ひきって破ったのである。それは有線描法を無線にして了った事と図案風に脱皮した点である。一言にして言えば、それ迄一種の法則に捉はれてゐた画風に対し、革命的描法に出でたその大胆さである。

光琳逝いて二百数十年になる今日、彼の偉業は明治画壇に革命を起した。それに就て斯ういう事があった。私は三十余年前岡倉天心先生が大観、春草、観山、武山の四画伯を従え、常陸の国五浦に隠棲した時であった。その頃私は或事情があって天心先生に面接する事を得た。先生は将来の日本画に対する抱負などを語られ、私も非常に得る処あり、先生の凡ならざる事も其時知ったのである。其日下村観山、木村武山の二画伯と一夜語り明した事があった。其際観山先生の語る処によれば、「美術院を作った天心先生の意図は、光琳を現代に生かすにある。従而、吾々は線を使はないのが本意である。今日吾々の画を朦朧派などと謂って軽蔑するが、何れは必ず認められる時が来るに違いない。」といふのである。全く先生の言の如く院派の画は間もなく日本画壇を風靡し、日本画の革命となった事は周知の通りである。又観山先生は斯ういふ事も語られた。泰西に於ての絵画が写実主義が極度に達した結果、微に入り細に渉り写真と優劣を争うよりになり、どうにもならない迄に行詰り、何等か一大転換の途を発見しなければならないといふ時に、仏蘭西の画壇で光琳を発見した者があった。巧緻なる写実主義とは全然反対である光琳の行き方に驚異し、讃歎した事は察するに余りある 果然アール・ヌーボー式なる図案が生れ、前期印象派の運動が起り、遂に後期印象派の巨匠としてのゴッホ、ゴーガン、セザンヌ等の鬼才を生むに至ったのである。そればかりではない、凡ゆる美術工芸にまで革命を起し、遂に建築の様式にまで及ぼす事となった。建築界に於ても、それまでのギリシャ、ローマ式セセッションによって大いなる変化を来しルネッサンス式は影を潜め、近代的建築の様式を生むに到った事は衆知の通りである。今日世界を風靡してゐる仏のコルビジュヱ氏創成の極度に簡素化された建築様式も、其原の元は光琳の影響である事は否め得ない処である。

私は死後数百年を経過して俄然全世界を動かした。否人類文化の一分野に革命を起さしめた日本人光琳こそは、日本が誇る最大なる存在であるといっても過言ではあるまい。

今日迄の日本人にして、その業績が世界の或分野を動かし得たといふ例は一人もあるまい。ひとり光琳あるのみと言はざるを得ないのである。

随55 1949年8月30日
日本美術とその将来  一、絵画

日本美術を語るに当って、絵画彫刻と美術工芸とを分けて書いてみよう。

先づ日本画であるが、日本画の現在は危機に臨んでゐると言ってもよからう。事実容易ならぬ事態に直面してゐる事は、斯道に関心を持つものの一致した見解であらう 日本画が幕末から明治時代の一大転換期に際し絵画を始め凡ゆる美術工芸もそれに捲込まれた事はいふまでもない。此中を喘ぎ乍ら乗り切って兎も角命脈を繋いで来た日本画家としては直入、是真、容斎、楓湖、芳崖、雅邦、芳年等で此人達が貧乏と戦ひ狐塁を守って逆境を乗切って来た事は、後世の画人は忘れてはならない処であらう。雅邦が古道具屋になって漸く口を糊したのも此時で、其後世の中が落着くと共に斯界も立直り、美術学校を初め博物館、展覧会等の設立を見、特に文展の開催するあり、絵画界にも漸く春が巡り来たのである。とはいふものゝ、それまでの日本画壇は伝統墨守の域は脱せられなかった。処が俄然日本画壇に原子爆弾を投じたのが、画の岡倉天心先生が革命的意図の下に創設した彼の日本美術院であった。此運動の中心画家としては大観、春草、観山、武山の四人であった。美術院の狙ひの意図は光琳の項目に述べた如く。光琳を現代に生かすといふにある。然し時到らず初めは朦朧派などと軽蔑されたが、旧画風に飽き足らず何か新しいものを要望してゐた世の中は捨てゝは置かなかった。機運は此運動に忽ち幸ひした。燎原の火の如く画壇を風靡した事は勿論で、殆んど日本画壇を革命したといってもよからう。又別に穏健なる独特の画風の巨匠玉堂の呼応するあり、而も京都に於ては稀世の天才竹内栖鳳の明星の如く出現すると共に、富岡鉄斎又特異の画風を以て西都の一角に重きをなす等、漸く日本画の全盛時代が来たのである。処が春草は早逝し、観山も武山も後を追ひ、東京は玉堂、大観の二大家のみ、僅かに覆えんとする日本画壇を支えてゐるに過ぎない現在となった。又京都に於ても栖鳳鉄斎逝き、その遺髪を嗣ぐとさえ想はれた関雪も夭折するといふ、実に東西日本画壇も劇壇と同様な寂莫さとなった事である。

以上は重に老大家を採上げたのであるが、将来大家の候補者と目すべきものに、東京に於ては古径、靭彦、青頓等の美術院派の巨匠はあるが、不思議に前者の二画伯共病弱の為活気乏しくそれが画面にも表はれてをり、青頓も近来往年の元気なく三者共当分大作は期待し得ないであらう。実に惜しいものである。其他孤塁を守って一方の存在である川端龍子画伯も技は巧みで覇気も大いにあるが、惜しい哉支那料理式で油っこ過ぎる点と、彼が会場芸術の謬論を固執し今以て目覚めない点である。右の二点を除いたら大家たり得る素質は充分あるであらう。京都に於ても五雲 渓仙逝き、印象は病弱で元気なく、僅かに福田平八郎があるが、彼の画は才はあるが技未だしの感あり、低迷期を脱却し得ない憾みがある。以上によって日本画壇の将来を検討する時、前途の帰趨は逆賭し難いものがあらう。

茲で私は日本画壇の衰退の原因に対し一大苦言を呈したいのである。それは塗抹画の流行である。私は公正な眼で観るとすれば、現在の日本画は描くのではない。塗抹の技芸である。酷かは知れないが絵画といふよりも寧ろ美術工芸の部に属すのではないかと思ふ。実に日本画の堕落である。之では日本画に趣味をもつものは段々減るばかりであらう。私なども非常に絵が好きだが、塗抹絵には何等の興味もない。之は私だけの見解かもしれないが、大観、玉堂がない後は、日本画はどうなるであらうかと考える時、自ら悲観の湧くを禁じ得ないのである。此意味で吾々の美慾を満すには、古画より外にない事になる。それかあらぬか本年の如きは展覧会の入場者激減で全部赤字といふのであるから晏如たり得ないのである。

茲で古画に就ても少し語ってみたいが、私の好きな画は古い所では啓書記、周文、相阿弥等は元より支那の牧谿、梁楷、因多羅、等から、元信、探幽、雪舟、雪村であり中期に至っては勿論光琳、宗達、乾山、応挙、又兵衛等で浮世絵は師宣、春信、歌麿であらう。近代に至っては抱一位で、現代としては栖鳳、大観、春草、玉堂、関雪位であらう。之等に就て些か短評を試みるが、先づ古画に於る啓書記、周文、牧谿、梁楷、相阿弥等の絵画的技巧と内容は不思議の文字に尽きるのである。四五百年から六七百年以前の作品のその素晴しさは、現代大家と較べて古人の方が師で、現代の方は弟子といっても過言ではあるまい。画面を熟視すればする程、些かの欠点も見出だせないばかりか、良さが無限に湧いてくる。観者をして何ものかに打たれずにはおかない。自然に頭が下るのである。

元信初め探幽、雪舟、雪村等は全部良いとはいえないが、時には非常に優れたのもある。

光琳は、「光琳」の項に書いたから略すが、宗達も優れたものがある。光琳ほど大胆豪放ではないが、非常に用意周到筆意の簡素、思はず微笑む画で私は堪らなく好きだ 又乾山は独特の味があって、筆は少し硬く稚拙的な処はあるが、又捨て難い作風である。応挙は常識的で破綻がない。気品も高く行くとして可ならざるなき絵で、兎に角名人である。又兵衛は一名勝以といひ大和絵と狩野風で調も高く、上品で好もしい絵である。抱一は人も知る如く光琳の憧憬者で、彼独特の気品と、洗錬せる技巧と、一面俳人的妙味もあって捨て難いものがある。

近代に至っての名画人として芳崖、雅邦、春草に指を屈するが、現代人としては栖鳳、大観、玉堂の三人であらう。栖鳳の大天才は他に真似の出来ない所がある。彼の写実的技巧に至っては外遊の影響から色彩に洋画を採入れ、物の感覚を把握する鋭どさと表現の手際は、古今を通じて並ぶものはあるまい。特に彼の画は極端な程簡素で点一つと雖も忽せにはしない事で、全く神技である。今日の画家があらずもがなの筆や色で所狭きまで塗り潰す如きは、その低俗なる、何故栖鳳を解せざるやを疑ふのである。千万言の意を一言にして喝破する態の境地を覚るべきである。尤も前述の如き描き過ぎる画は展覧会に否でも応でも当選されようとし、絵具と努力で選者の同情に訴えんとする意図からでもあらう。

次に大観であるが、無線派の巨匠としての彼の絵は脱俗的一種の風格がある。素朴典雅で、風月物体を表現する神技は、栖鳳のあまりに写実に捉はるるに反し、彼は放胆な中に注意を払ひ、物体の表現と技巧と、凡俗に媚びず、独自の境地に取済してゐる態度は亦偉なりといふべきで、只一つ惜しむらくは画題の極限されてゐる点である 春草は大観の女房と言ってもよい位で、彼の絵の柔かさは春の野に遊ぶが如くで好もしい作風である。

玉堂は、玉堂としての言ふに言はれない味がある。特に彼の線の柔かく、簡素で、よくその効果を表現してゐる技は凡ではない。特に私の敬服する所は、奇を衒はず、野心なく淡々として平凡なるが如くで非凡であり。自然の風物をよく表現して観者を魅惑する力は他の追従を許さないものがある。実に奥床しい画風である。

鉄斎の絵は又独特のもので、無法の法ともいふべく、実に趣味津々たるものがある。然し鉄斎は六十才を超えてからああいふ画になったので、八十九才で逝いたが、晩年になる程傑作が多かった。

鉄斎没後、第二の鉄斎を期待した富田渓仙の夭折も亦惜しいものであった。

次に関雪であるが、彼は之からといふ所で逝いたのは惜しみても余りある。彼の絵にはほとばしる覇気をよく包んで表はさず、南画風であって筆力雄渾亦凡ならず、而もワビの味をよく出してゐる。ただ年の若い為か出来不出来のあったのは止むを得ないであらう。せめて六十以上の年を与えたら名人の域に達したに違ひない。

随58 1949年8月30日
日本美術とその将来  二、彫刻 三、蒔絵
二、彫刻

次に彫刻の事を少しかいてみよう。昔の運慶や左甚五郎等はあまりにも有名であるが、彫刻は絵画と違ひ、昔から名手は非常に少かった。(不明)に現代のみをかく事にするが明治以後今迄に見られない隆盛となった事は、展覧会等の刺戟が与って力あった事は勿論である。先づ有名人としては木彫では石川光明、米原雲海、山崎朝雲の故人及老大家を初め、平櫛田中、佐藤朝山改め同清蔵氏等が重なる人であらう。以上の中私は田中が好きだが、近来は往年のような活気が乏しいようである。ひとり清蔵氏のみは今膏がのりきってゐて、なかなか名作を出してゐる。氏に望むらくは満々たる野心は長所に価するが、今一段の洗練と円熟とを期待したいのである。洵に人なき彫刻界にあって、君こそは近代の名人たり得るであらう。

銅像や塑像に於ては何といっても、浅倉文夫氏に指を屈せざるを得まい。然し乍ら同氏の技術は行く所まで行った感があるのは私のみの見解ではなからう。

茲で特筆すべきは、古代に於ての仏像彫刻である。彼の法隆寺、夢殿に於ける幾多の仏像の洗練せる技術は、千二百年以前、天平時代の作とはどうしても考えられないのである。之を凌ぐべき彫刻芸術は何時の日か生れるであらうかを思ふ時、多くの期待は望み得べくもないと思はざるを得ないのである。

随64 1949年8月30日
三、蒔絵

次に、美術工芸に就てかいてみるが、之も絵画と同様古人の優秀さは驚くべきものがある。先づ外国にない日本独特の工芸美術としては蒔絵である。因ってそれから書いてみよう。蒔絵は余程古くから発達したもので、天平時代既に立派な作品が出来てゐる。勿論その時代のものは仏教関係のものが多く、研出蒔絵の経箱などが殆んどである。蒔絵が大に盛んになったのは鎌倉室町時代からで、次で足利期に及び桃山時代に至って大いに進歩発達し、名工も簇出したのである。就中五十嵐道甫、山本春正、古満休意、休伯、塩見政誠等は重なる名工であり。多くの名作を残してゐる。それ迄は研出蒔絵のみであったが、其頃から高蒔絵が製出されるようになったが、一方これに対し全然新しい図案と描法を以て一大センセーションを捲き起したものは、彼の本阿弥光悦及び尾形光琳である。彼等は鉛、青貝、金平、蒔絵等を巧みに応用し、前者の巧緻を極めた美々しきものに対し、之は亦自由奔放独特の図案は勿論、雅致横溢したものである。次いで小川破笠の陶器を混入した新規軸的のものや、柚田重光の金銀の薄板と青貝等を主とした独特の作を出すあり、漆芸の進歩著るしいものがある。そうして桃山時代の飛躍の後を受けて徳川期に入るや、各大名が競ふて大作名作を製作させたので、名工輩出すると共に、彼の百万石の大々名加賀の前田氏の如きは御小屋と称し、庭園の一部に仕事場を作り、名工を招聘し、材料も手間も御入用構はずで一生涯捨扶持をやった事によって、如何に絢爛優秀なる作品を生むに至ったかは、今尚博物館初め各所に残ってゐるものにみてもよく判るのである。全く日本が世界に誇る一大芸術国である事も認識され得やう。

近代に至っては梶川彦兵衛、同文龍斎、中山胡民等の名工等が明治に入るや簇出し始めたのである。蒔絵も他の美術と等しく幕末から明治初年の衰退期を経て一躍全盛期に突入した。柴田是真、白山松哉、小川松民、池田泰真 川之辺一朝、赤塚自得、植松抱民、同抱美、船橋舟眠、迎田秋悦、都築幸哉、由木尾雪雄等が重なるものである

茲に特筆すべきは白山松哉である。恐らく彼は古今を通じての第一人者であって、彼の右に出づる者は一人もないといっても過言ではなからう。彼こそ漆芸界に於る大名人である。彼の作品を見る時私は頭が下るのである。勿論最初の帝室技芸員でありながら、彼の逸話として伝えらるる処は、大正時代彼は一日の手間賃四円五拾銭と決め、それ以上は決してとらないといふ事で、実に無慾恬淡、ただ芸術にのみ生きたといふ、彼こそは真の意味の芸術家であるといえよう。実に敬慕すべき巨匠ではあった。

随65 1949年8月30日
日本美術とその将来 四、陶器 五、書について
四、陶器

陶器に就てもかいてみるが、元来陶器も絵画と同様支那から、学んだものであるから最初の日本陶器は殆んど支那の模倣であった。古い所では黄瀬戸、青織部、青磁、染付、有田、平戸等で、美術的陶器としては彼の柿右衛門が初めたもので、次いで稀世の陶工仁清が京都に表はれ、更に九谷焼が生れ、一方京都では粟田清水等の色絵も出来、仁清風が伝はって伊勢の万古、赤絵となり、次で薩摩焼の錦手等が制作される事になった。

又室町時代凡そ四百年前、尾張、瀬戸に生れたのが古瀬戸といひ、古くは千二百年前奈良朝頃から自然灰を上釉とした青磁風の陶器が出来、日本青磁も江戸中期から出来たが到底支那青磁に比すべくもない。

柿右衛門は慶長頃の名工で、近世色絵、錦手等の新規軸を出したので其功績は斯界の大恩人であらう。其後元禄時代六代柿右衛門は、渋右衛門の優によって優秀な製品を出し有名となった。

特に私の好きなのは肥前の大河内焼で一名鍋島焼といひ、享保年代初めて造られたもので、皿類が多く、その意匠の抜群なる色絵染付の技術と相俟って垂涎措く能はざるものがある。次に俗に伊万里焼といふ錦手ものも捨て難い処がある。又薩摩焼の巧緻にして、絢爛たる色絵も可なるものがある。然し以上の三者共、近代のものは意匠、技術共見るべきものなく何といっても二百年以前の物に限るといってもいい。

ただ百五十年前に生れた錦手風の九谷焼は見るべきものがある。特に吉田屋の青九谷や色絵物に優秀なものがある。

私は最後に語るべきものに彼の京焼の祖である。名人仁清がある。彼は仁和寺村の清兵衛が本名で陶工としては先づ日本に於る第一人者といってもいい、彼の作品に至ってはその多種多様なる形状模様の行くとして可ならざるなき作風は天稟であらう。而もその高雅典麗にして他の陶器をきり離してゐる。特に抹茶碗、壺等には国宝級のものも相当あり、画界に於る光琳ともいえよう。彼の偉なる点は日本陶器は殆んど支那を範としたに拘らず、彼のみは些かもそれがなく、日本独特のものを作ってゐる。尤も彼の鍋島焼も同様日本独特のもので、此点二者同様の線に添ふており、支那以上のものも多く出してゐる。又乾山も稚拙な点もあるが、趣味横溢したものもある。光琳の弟である為、光琳との合作もある。

又備前焼にもなかなか良いものがある。重に花生、置物等で、古備前、青備前等優品が多く、推奨に足るものがある。又祥瑞も私の好きなものである。其他京焼物の種類も多いが、名だたるものとしては初代木米位であらう。

陶器を語るに当っては茶器も語らなければなるまい。茶器としては先づ茶碗であらう。特に朝鮮ものが最も珍重される。最高のものとしては井戸であらう。井戸の中喜左衛門、加賀、本阿弥等は有名である。之等は今日と雖も価格数百金といふのであるから驚くべきである。次いで魚屋、柿の蔕、粉引、蕎麦等は朝鮮物として珍重されてゐる。純日本物としては古瀬戸、志野、唐津、長次郎、のんこう、光悦、仁清、織部、萩、信楽、伊賀等であらう。特に長次郎は楽の元祖で、利休の寵を受けた名工で、今日迄十三代続いてゐる。

次に新しい所を少し書いてみるが、明治以後今日迄特筆すべき名人は未だ出ないようだ。重なる名工として初代宮川香山、清水六兵衛、板谷波山、富本憲吉位であらう

支那の陶器としては先づ青磁で、青磁にも砧、天龍寺、七官の三種ある。其他交趾、万暦、赤絵、呉須等がある。朝鮮物は白高麗位であらう。

随68 1949年8月30日
五、書について

私は絵と共に書も好きである。御存知の通り毎日数百枚の書をかく。恐らく私の書く書の量は古往今来日本一といっても可からう。お守にする光の書は一時間に五百枚をかく。又額や掛軸にする二字乃至四文字の書は三十分間に百枚は書く、余りに早い為三人の男で手捌きをするが、仲々追つき得ない。トント流れ作業である。

書道に就て私は以前或有名な書家に習いたいと申入れた。それは略字に困る事があるからで、それを知りたい為と言った処、その書家が言ふには、

「先生などは書を習ふ事はやめになった方がよい。何故ならば習った書は一つの型に篏って了ふから個性がない。字が死んで了ふ。形だけは美しいが内容がない、自分などはその型を今一生懸命破らうとして苦心してゐる位だから、先生などは自由に個性を発揮される方がよい。字を略す場合など、棒が一本足りなからうが多からうが一向差支えない。」と言ふので、私は成程と思ひ習ふ事はやめて了ったのである。

絵画や美術工芸なども、古人の方が優れてゐる事は定説となってゐるが、書に至っても同様で、私は古筆などを観る毎に感歎するのである。特に私が好きなのは仮名がきで、現代人には到底真似も出来ない巧さである。尤も其時代の人は生活苦や社会的煩はしい事などないから、悠々閑日月の間に絶えず歌など物したり書いたりして楽しんでゐた為もあらう。現代人で古人と遜色のない仮名がきの名手としては、尾上柴舟氏位であらう。古人で私の好きなのは先ず道風、貫之、定家、西行、光悦等であるが、特に光悦の一種独特の文字は垂涎措く能はざるものがある。又俳人芭蕉の文字もなかなか捨て難い点があり、而も芭蕉の絵に至っては専門家と比べても遜色はあるまい。之によってみても一芸に秀づる人は他のものも同一レベルに達してゐる事が判るのである。

漢字では王義之、空海等はいふ迄もないが、近代としては山陽、海屋、隆盛、鉄舟等も相当のものである。何といっても漢字は文字の技巧よりも人物の如何にあるので、やはり大人物の書は形は下手でも、どこか犯し難い品位がある。之に就て霊的解釈をしてみよう。書にはその人の人格が霊的に印写されるのであるから、朝夕その書を観る事によってその人格の感化を受けるので、そこに書といふものの貴さがあるのであるから、書はどうしても大人物、大人格者のものでなくては価値がないのである。妊娠中の婦人が胎教の為、偉人の書を見るのを可としてゐるが、右の理由に由るのである

茲で、私の事を書いてみるが、私の救の業としての重点は書であるといってもいゝ それは書が大いなる働きをするからで、此説明はあまり神秘な為何れ他の著書で説くつもりであるが、茲では只書道を随談的にかいたのである。

随71 1949年8月30日
東洋美術雑観(1)

今迄美術に関する批評といえば、殆んど学者の手になったものばかりでそれは成程究明的で深くもあるが、一般人にとっては必要がないと思う点も少なくないので、私などは終りまで読むに堪えない事がよくある。そこで一般的に見て興味もあり、一通りの鑑賞眼を得られればいいという程度にかいたつもりであるから、之から美術の門に入らうとする人の参考になるとしたら幸いである。

美術に就て、先づ日本と外国との現状からかいてみるが、外国といっても今日美術館らしい施設を有っている国は、何といっても米英の二国位であるから、此二国の現在をかいてみよう。それはどちらも東洋美術に主力を注いでいる点は一致しているが、東洋美術といっても、殆んどは支那美術で、陶磁器を中心に銅器と近代絵画という順序である。そうして先づ英国であるが、此国での蒐集家としては、世界的有名なユーモー ホップレスとデイビットの二氏であろう。ホップレス氏の蒐集品は余程以前から大英博物館を飾っており、其量も仲々多かったが、第一次大戦後経済上の関係からでもあろうが、惜しい哉相当手放したのである。勿論大部分は米国へ行ったが、不思議にも少数のものが日本にも来て、今も某氏の所有となっている。斯んな訳で若干減るには減ったが、今でも相当あるようである。

次のデイビット氏は、まだ美術館は開いていないそうだが、ホップレス氏の方は唐、宋時代からの古いものが多いに対し、デイビット氏の方は明以後の近代物が多いようである。そうしてホップレス氏の方は周の前後から漢、宋辺り迄の優秀銅器が相当あり、又絵画も多数あるにはあるが、宋元時代の物は僅かで、明以後康煕、乾隆辺りのものが其殆んどである。デイビット氏の方は銅器も絵画も図録に載っていない処をみると、余りないのであろう。併し英国では個人で相当持っている人もあって、其中で珍らしいと思ったのは、某婦人で日本の仁清を愛好し、若干有っているとの事である。そんな訳で同国には日本美術は余りないのは事実で、それに引換え米国の方は、流石富の国だけあって、立派な美術館も数多くあるし、品物も豊富に揃っている。先づ有名なのは華府、ボストン、紐育、桑港、羅府等の大都会を始め、各都市に大なり小なりあるのである。其中で小さいが特に際立っているのは、フリヤーギャラリーという個人の美術館で、之は世界的に有名である。此処は銅器の素晴しい物があって、私は図録で見た事がある。然し何といっても同国ではボストンの美術館で、日本美術が特に多いとされている。何しろ明治時代岡倉天心氏が同館の顧問となって相当良い物を集めたし、後には富田幸次郎氏が亦日本美術の優秀品を買入れたのであるから推して知るべきである。私は数年前華府美術館にある屏風類の写真を色々見た事がある。光琳、宗達のものが多かったが、何れも写真で分る程の贋物ばかりなのには唖然としたのである。そんな訳で日本古美術として海外に在るものは、思ったよりも少なく、只版画だけが寧ろ日本にある物よりも優秀で、数も多いとされており、特に版画で有名なのはボストン美術館である。其他としては仏蘭西、独逸も若干あるが、只写楽物だけは独逸に多いとされている。では何故版画が外国に多いかという事に就て、私は斯う思っている。それは彼等が明治以後日本へ来た時、先づ目に着いたのが版画であって、値も安く手が出しいいので、土産として持って帰ったのが、今日の如き地位を得た原因であろう。処が私はどうも版画は余り好かないので、以前から肉筆物だけを集めたから割合安く良い物が手に入ったのである。というのは版画は外人に愛好された為、真似好きな日本人は版画を珍重し、肉筆物の方を閑却したからである。而も最初外人が来た頃の日本人は、肉筆物を大切に蔵い込んでいたので、外人の眼に触れなかったからでもあろうが、此点勿怪の幸いとなった訳である。

次に我国独特の美術としては、何といっても蒔絵であろう。之も肉筆浮世絵と同様、外人の眼に触れる機会がなかった為手に入らず終いになったので、存外海外にはないらしい。以下蒔絵に就て少し説明してみるが、此技術は勿論、古い時代支那の描金からヒントを得て工夫したものであろうが、日本では奈良朝時代已に相当なものが出来ている。今日残っている天平時代の経筥の如きは、立派な研出蒔絵であるから驚くの外はない。其後平安朝頃から段々進んで、鎌倉期に至っては劃期的に優良品が出来たので、今でも当時の名作が相当残っており、吾々の眼を楽しませている。次で桃山期から徳川期に入るや、益々技術の向上を見、而も大名道具として蒔絵は最も好適なので、各大名競って良い物を作らした。今日金色燦然たる高蒔絵の如きは、殆んど徳川最盛期に出来たもので、品種は書棚、料紙文庫硯筥、文台硯筥、手筥、香道具等が主なるものである。

栄166 1952年7月23日
東洋美術雑観(2)

夫等とは別に、桃山時代彼の有名な本阿弥光悦という不世出な工芸作家が生れた。彼の美に対する天才は、行く処可ならざるなき独創的のもので其中でも蒔絵、楽焼、書、余り多くはないが絵などもそうで、其斬新な意匠、取材等は、時人をして感嘆させたのは言う迄もない。此光悦の影響を受けて生れたものが彼の宗達であった。此人はそれ迄の各流派の伝統を見事に打破し、今日見るが如き素晴しい絵画芸術を作ったのであるから、全く日本画壇にとっての大恩人であろう。其後百年以上経てから彼の光琳が出現したのである。光琳は宗達の画風に私淑し、それを一層完璧にしたものであるから、言わば光琳の生みの母である。茲で光琳に就て一言差挿む必要がある。それは今日喧しく言われているマチス、ピカソ等にしても、其本源は光琳から出ている。そうして彼光琳が世界的に認められたのは、十九世紀の半ば頃と思うが、光琳を最初に発見したのは仏蘭西の一画家であった。此画家が初めて光琳の絵を見るや、俄然驚異の眼を瞠ったのである。というのはそれ迄ヨーロッパに於ては、長い歳月続いて来た彼のルネッサンス的美の様式が極度に発達し、就中絵画に至っては写実主義の頂点に及び、行詰りの極どうにもならなかった。何しろ其時の人々は写真に着色した方がいいとさえ言った位だから察せられるであろう。そこへ青天の霹靂の如く現われたのが光琳であった。光琳の画風たるや微に入り細に渉ったそれ迄の手法とは反対に、極めて大胆に一切を省略して而も其物自体を写実以上に表現する素晴しさを見た仏蘭西画壇は、救世主出現の如く歓喜したのは勿論で、忽ちにして百八十度の転換となり、それから生れたものが彼の前後期印象派である。それを起点として幾変遷を経て遂に現在の如き画風にまで到達したのであるから、光琳の業蹟たるや表現の言葉もない偉大なものであろう。当時仏蘭西出版界に明星とされた書に、著者の名は忘れたが題は、『世界を動かせる光琳』というのがあった。全く死後百数十年を経てから、全世界を動かしたのであるから、光琳こそ英国に於けるシェークスピヤに比して、優るとも劣らないと私は思っている。何となれば光琳の事蹟は独り画壇ばかりではなく、凡ゆる社会面に渉って一大革命を起したからである。それは最初生れたのが彼のアールヌーボー様式で、漸次世界の意匠界を革命して了った。それは凡ゆる美の単純化である。特に著しい変化を与えたのは建築である。其真先に現われたのが彼のセセ bションであって、之が幾変遷して遂に今日世界の建築界を風靡した彼のル・コルベジュエ式となったのである。

右の如く世界の凡ゆる建築も、家具も調度、衣裳、商業美術等々、其悉くはルネッサンス様式を昔の夢と化して了った事である。以上光琳の業蹟に就てザットかいたのであるが、私は斯う思っている。日本人で文化的に世界を動かした第一人者としては、光琳を措いて他にないであろう。彼こそ日本が生んだ世界的金字塔でなくて何であろう。又現在の日本画壇にしてもそうだ。それ迄狩野派、四条派、南宋派などの旧套墨守的画風であったのを、一挙に革命して了った者も光琳である。之に就て斯ういう話がある。それは今から三十数年前、彼の岡倉天心先生に私は直接面会した時の事である。先生曰く『僕は今度美術院を作ったが、其意とする処は、光琳を現代に生かすにある』との決意を示された。之にみても現在の日本画は光琳が土台となって、それに洋画を加味したものである。余り長くなるから、光琳の話は之位にしておき、次に移る事としよう。

茲で日本画の歴史を大略かいてみるが、抑々日本画は支那から伝来したものであるのは周知の通りである。そうして東洋画としての発祥地は、絵画史によると支那の西蔵寄りにある敦煌という処で、此処は千数百年以前は最も文化の発達した都市で、大谷光瑞氏は此辺を最も好んだとみえ、長く滞在して随分調査探求したもので、其記録を私は見た事がある。それに附随した沢山の写真も見たが、建築、風俗等、其頃としては頗る進歩していた事が窺われる。そうして時代は唐であって、それから五代頃から進歩し始め、北宋に到って東洋画としての形式が一応完成され、名人巨匠続出したのである。今日珍重されている宋元名画は其頃の作品である。面白い事には其当時の有名な画家の殆んどは、禅僧であった事である。彼の墨絵の巨匠たる牧谿、梁楷も禅僧であり、此二大名人のものは、本館に出ているから観たであろう。

以上の如く、初め支那に生れた絵画が、日本へ輸入されたのが足利期からである。尤も其以前奈良朝時代にも少しは入ったようだが、右の如く宋元時代の名画を知ったのが彼の足利義満、義政であったので、今日日本にある宋元名画の殆んどは、足利氏の手を経たもので、特に優秀なものは東山御物として特殊の判が捺してあるから直ぐ分る。そうしてそれ等名画を扱った役目をしていたのが彼の相阿弥である。勿論芸阿弥、能阿弥もそれに携ったらしいが、其影響を受けて生れたのが彼の東山水墨画である。又当時支那に行って学んだ画家としては、啓書記、周文、蛇足等で、少し後れたのが雪舟であるらしい、一説には雪舟は帰化人であるとも云われている。然し右の人々こそ日本画の祖であった事は間違いない。従って狩野派の祖は雪舟であるといってもよかろう。

栄167 1952年7月30日
東洋美術雑観(3)

処が之より先、平安朝時代の和歌旺んな時和歌の雅びな仮名書に感化を受けて生れたものが彼の大和絵であろう。此手法は勿論支那の彩色画から出たのであるが、此派の巨匠としては有名な藤原信実である。此人の色紙が今日一枚百万以上もするにみて、其優れている事は想像出来るであろう。又別に鳥羽僧正をはじめ覚鑁等の戯画も生れたが之は漫画の初めと言えよう。そうして大和絵の進歩は藤原期から鎌倉期に続いて、多く神仏関係の縁起物を題材とした絵巻物が多く、今日其頃の絵巻物の好いものとなると非常に珍重され価格も驚く程である。今私が欲しいと思っている或絵巻物は、三巻で六百万円というのであるから、手が出せないで只指を喰えているのみである。絵巻物は特に米人が愛好し、逸品を虎視眈々と狙っているそうである。本館にある天平因果経の巻物は千二百年前出来たもので之は日本画としては最古のものであるに拘わらず、其色彩の鮮かなるにみて、其絵具の優良なる今日でも解らないとされている。

又大和絵から転化したものに土佐派がある。其中での巨匠としては光起、又兵衛(勝以)等であり、次で菱川師宣出で、茲に浮世絵を創めたのである 其後歌麿、春信、長春等の名匠相次いで出で、近代に到ったのは人のよく知る処である。

そうして日本画として驚くべき物は彼の仏画であろう。尤も支那宋時代の仏画からヒントを得たのであろうが、日本は又日本独特のものを描いた 寧ろ支那よりも優っている位である。本館にも数は少ないが、審美的に観て価値あるものを出した積りであるが、仏画にあり勝ちな窶れや汚点が少ないから、見る眼に快い美しさがあろう。茲で一寸書き漏らせないのは、足利末期に於ける数人の画家である。海北友松、長谷川等伯、狩野山楽等であるが、本館にある友松の屏風は、友松中の逸品とされている。狩野派に於て元信、尚信、常信、雪村、探幽等幾多の名人は出たが最後の雅邦までで人気は一頃と違って来た。勿論時代の変遷が唯一の原因であろう。絵画は此位にしておいて、書に就て若干かいてみるが先づ日本人の書としては何といっても仮名書であろう。其中でも最も優れているのは平安朝時代の人達で、貫之、道風、西行、定家、佐理卿、宗尊親王、俊頼、良経、源順、行成等、女性としては紫式部、小大の君等であるが、之等古筆物は日本独特の優美さがあり其高雅な匂いは他の追随を許さぬものがある。次に墨蹟であるが、日本では先づ弘法大師を筆頭とし、大徳寺の開祖大燈国師を始め、同系の一休、沢庵、清巌、江月、玉室、古渓等が主なるもので、其他としては鎌倉円覚寺の開祖無学禅師、別派として夢窓国師であろう。又近代の人で人気のあるのは良寛であり、名筆としては貫名海屋辺りであろうかと思う。書は大体此位にしておいて、次は日本陶器に移るとしよう

日本陶器も絵画と同様支那から伝わったものに違いないが、其殆んどは支那の影響を受けている赤絵物、染付物、青磁物等もそれであって、彼の柿右衛門、伊万里、九谷なども人の知る処であるが、只鍋島の皿は意匠といい、色彩といい、日本独特のものであろう。其他異色ある物としては薩摩と万古位のもので、右とは別に朝鮮物からヒントを得て、鎌倉時代に作り始めた尾張物がある。之は殆んど茶碗であって茶人は大いに珍重し愛好されている。従って価格の高い事も驚く程で、種類と言えば古瀬戸、黄瀬戸、志野、唐津、織部等であるが、之等は尾張物と称し錆物とも云われている。右の外の錆物では備前及び信楽焼があるが勿論茶器類が多く、仲々捨て難い味がある。そうして茶碗に就て見逃す事の出来ないのは、彼の楽焼の祖長次郎の作品であろう。此人は勿論朝鮮陶器からヒントを得て、楽焼という日本独特のものを案出したので、千の利休に可愛がられて名器を数多作ったのである。其後三代目ノンコー、四代目一入 五代目宗入が有名である 従って長次郎は日本陶芸家の名人として永遠に残るであろう。

茲で日本陶芸家として支那にも劣らない名人の事をかかねばならないがそれは何といっても仁清と乾山の二人であろう。先づ仁清からかいてみるが、此人は徳川初期の京都の人で、本名は野々村清兵衛といったが、仁和寺村に住んでいたので、通称仁清といったが、其まま有名になったのである。此人の特に優れた点は、凡ゆる日本陶器が支那又は朝鮮をお手本としたのに、此人ばかりは異って独創的である。其意匠、模様、形、色等、日本的感覚を実によく表わしている。而も優美にして品位の高い事は、到底支那陶器も及ばない程で全く日本の誇りである。之を見る時私はいつも、日本陶芸家としての光琳であろうと思う。

次は乾山であるが、乾山は周知の如く光琳の弟であって、此人も多芸で絵画に於ても素晴しい手腕を有っており、陶芸もそれに伴っているから珍らしいと思う。此人は仁清とは又違った味を持っており、どちらかといえば仁清が大宮人とすれば之は野人的である。勿論絵にしても光琳宗達のような巧緻な点はないが、言うにはいわれぬ稚拙的趣きがある。私は斯う思っている。此二大名人によって日本陶器も、支那陶器と対照としても、敢て遜色はないとさへ思っている。

次に仏教美術に就ても少しかいてみるが、之も絵画は唐時代、彫刻は六朝時代支那から伝えられたものであって、推古時代から伝ったもので、今から約千三百年前である 勿論仏教美術は絵画彫刻共、歩調を揃えて発達して来たと言いたいが、此発達の言葉に疑念がある というのは古い時代のもの程反って優れてゐるからである 成程技巧の点は鎌倉時代辺りが最も発達したが、絵画でも彫刻でも藤原時代の方が優っており、又藤原時代よりも奈良朝時代の方が優っているのだから、全く不思議である。彫刻の最初は金銅仏、乾漆物が殆んどで、漸次木彫に遷ったのである。そうして有名な法隆寺の百済観音、薬師寺の本尊薬師如来、法華寺の十一面観音等に至っては、言語に絶する名作である。従って仏画は別としても仏像の彫刻は世界最高の水準といえるであろう。実に日本が誇るべきものの一つとして世界的芸術品であろう。(後略)

栄168 1952年8月6日
書に就て

いつも独特な観察と、軽快な文章を以て、本紙を賑わしている江川君が今度書と宗教に就てという感想文をかいたのを見て、私もそれに刺戟され思いついたままをかいてみよう

元来、書とは昔からよく言われている通り、其人の人格を筆によって表現するものであるから、偉人や高僧智識等のかいたものを尊しとされている、面白い事には茶道と書とは、切っても切れない関係のある事で、それに就て私は以前、利休の茶会記事を読んだ事があるが、それによると利休は墨蹟を好み、茶会の時はいつも床へ掛けていたという事で、偶には画もあるが、それは牧谿に限られていたそうである、墨蹟は無論、支那の宋から元にかけての高僧の書いたもので、中には日本へ帰化してから書いた人もあり、日本の禅僧の書も尊ばれている、先ず有名なのは、大徳寺の開山、大燈国師をはじめ、円覚寺の開山、無学禅師や其他夢窓国師、支那及其帰化僧としての圜悟、無準、宗杲、茂古林、清拙、虚堂、兀庵、倚楚石、自如、恩断江等があるが中にも私の好きなのは大燈と無準と宗杲である、そうして以上のような墨蹟をみていると、巧みな字は勿論だが、巧みでない字でも眺めていると、何かしら犯すべからざる一種の高邁さに打たれるのである、全く其人の人格から滲み出る高さであろう

次に之は別の意味に於ての、大徳寺代々の禅師の書で、之も仲々捨て難いものがある、特に一休の書に到っては、実に稚拙ではあるが、些かも形に囚われない、上手にかこうなどという臭味など些かもなく、実に天真爛漫よく一休の天衣無縫的性格が表われている、面白い事には一休の贋物が随分あるが、反って字が巧すぎるから判る位だ、又沢庵の書も仲々いいが之は相当巧みな字で、而も覇気があり、悟りを開いたという衒いなどのない処に、禅師の風格が偲ばれる、其他清巌、江月 玉室等にも見るべきものがあるが、武人としては楠正成の字も非常に巧いと思うが、秀吉と家康の字も相当なものである、此間私は某所で空海の書をみたが、仲々柔味のある好い字であるが、世間でいう程ではないと思った、近代に至っては山岡鉄舟の書も面白い、彼の自由奔放なる書体は高く評価してよかろう、巌谷一六の書も捨て難いものがあるが、何と言っても良寛であろう、彼の脱俗的な軽妙な書体は、見て微笑しい位である、それから書家としての貫名海屋の字も達筆である、私はいつか海屋のかいた六曲の屏風を見たが、一曲一行文字で実に見事な書風で感心させられた

次に古筆の方面を少しかいてみるが、私が最も好きなのは紀貫之である 勿論万葉仮名であるが、実に何ともいえない気品と旨味があり、頭が下る位である、次で道風、西行もいい、私は此三人の文字が一番好きだ、其他としては行成、定家、佐理、良経、俊成、公任、俊頼、宗尊親王等それぞれいい処がある、女性としては小大君、紫式部もいい、今生きている人の中では尾上柴舟氏の字もいいが、氏の歌も私は好きである、先ず此位にして筆を擱く事とする

栄111 1951年7月4日
日展を観て

私はこの間今年の日展を観に行ったのでその感想を例により聊か書いてみるが、先ず第一会場に入り一見するや、どうもいつもと異うのである。いつも日本画であるこの会場に今年は洋画ばかりなので、不思議に思い同伴の者に訊ねた処"これは全部日本画ですよ"というので私は驚いて眼を擦りながら、そのつもりでよく見ると成程これはこれは全部日本絵具で描いた洋画ばかりなので二度吃驚という訳である。それから順々に観ながら思った事は最早展覧会の日本画は、昨年限りで消えて無くなったのである。伝統一千年を誇った懐しい我日本絵画は、茲に終焉を告げたのである。思えば一掬の涙なき能わずと言いたいのである。という訳で私はよく考えて見た。一体これはどうしたのだろう。全く不思議だ。何か理由がなくてはならないと思うのは、私ばかりではあるまい。

その時フト浮かんだのは、今日の世相である。外にも色々原因はあるであろうが、何といっても日本人通有の西洋崇拝観念の為であろう。早い話が近頃の青年の間に流行しているジャズにしても、若い女性の化粧、髪形、服装などをみても、アメリカ色の甚だ濃厚な事に驚く。又新聞広告を見ても、化粧品や売薬の宣伝文の中には必ずアメリカ云々の文字が目につく。というようにアメリカ文化の浸潤は凄じいものである。つまりこの波が美術方面にまでも流れ込んだのであろう。勿論絵画は仏蘭西の波であるが、ヤハリ西洋崇拝思想には変りはない。これに就いて私は東西に於ける絵画の歴史を振り向いてみた。それは先ず日本に於ける東山時代の初期日本画である。当時支那宋元画が旺んに輸入され、それからヒントを得て生まれたのが、彼の狩野派である。当時有名な画家としては雪舟、周文、啓書記、蛇足等から、相阿弥、芸阿弥、能阿弥、元信、雪村、探幽等に及び、桃山期に入るや友松、等伯、雲谷、山楽、永徳等々続々名人巨匠が現われた。

処が茲に特筆すべき一事がある。それまで支那画の伝統から一歩も抜け出られなかった日本絵画を見事打ち破って、日本人独特の感覚を表現した革命的画風を創作したのが彼の宗達と光悦である。然もその後百有余年を経た元禄時代に至って、その流れを汲んで一層飛躍的大芸術を生んだのが彼の光琳、乾山の二兄弟であった。処が面白い事には欧羅巴に於ても、これと符節を合わしたような出来事が起ったのである 即ち中世紀以来絵画芸術は愈々進んで、写実一点張の極致に達したと共に、これと歩調を揃えたのが彼のルネッサンス様式であったが、これも一時は当時の工芸美術を革命的に欧州全土を風靡したが、ヤハリ絵画と同様行詰り状態となり、どうにもならなくなった時、突如として現われたのが彼光琳であった。何しろその画風たるや今までのそれとは凡そ反対であって、大胆にして簡素、凡てを省略して、物体の本質を遺憾なく表わしたその技法は、見る者をして驚嘆せずには措かなかった。これによって暗夜に灯火を得た如く眼開け、百八十度の転換となったのは言うまでもない。その時を契期としてここに前途洋々たる道が開けたのであるから、事実欧州画壇を救った光琳こそは、日本人の一大誇りといってよかろう。その後写楽、歌麿、北斎、広重等の浮世絵の刺戟もあって、これ等東方の息吹きに蘇生した欧州画界は、溌剌として前進を始めたので、それから生まれたのが彼の前期及び後期印象派であった。セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ルノアール等の天才が続々と生まれたのもこの頃であって、茲に近代的画風が築き上げられたのである。以上東西の絵画史を考え合わす時、私は斯うも思った それは現在好もしからぬ西洋模倣の風潮も何れは行詰るに違いないから、その時この殻を破って突如として驚異的大天才が現われるであろう事は、期待し得らるると思うので、従って現在の洋画崇拝熱もその過程とみれば、敢えて悲観の要はないであろう

次に彫刻であるが、これは御多分に洩れずといった方がよかろう。その次の美術工芸品であるが、これも遠慮なくいえば見るに堪えない位である。何しろ古い伝統には飽き足らず、そうかといって西洋の模倣も出来ず、というのは日本の風俗、習慣の制約もあり、材料の点もあるからである。といって何か新しいものを生み出そうとする旺盛な意欲は認められるが、その為の焦慮苦悩の跡も滲み出ているので面白くない。しかしこれ等工芸美術も、根本としては絵画の歩みに連れる以上、当分は現在の儘で進むより致し方ないであろう。以上思い浮かんだままをかいてみたのである。

栄236 1953年11月25日
奈良美術行脚

今度私は、日本仏教美術調査研究の為、奈良地方へ赴き、著名な寺院を次々観て廻り、大いに得る処があったから、今其感想を些かかいてみよう。何しろ今から千二三百年以前、推古、飛鳥、白鳳、天平時代から、弘仁、藤原等の時代に至る迄の作品であるが、観る物悉くと言いたい程、素晴しいものばかりなので、面喰った位だ。よくも斯んな古い時代に、今日の美術家でも到底出来まいと思う程の物が沢山あるので、驚くの外なかったのである。その中で何といっても法隆寺の品物であろう。何しろ数多くの金銅仏や、木彫、乾漆、塑像等は勿論、厨子や仏器に至る迄、他の寺院にあるそれ等のものを断然切り離しているといってもいい程の優秀な物ばかりなのである。特に有名な百済観音などは、何時観ても頭の下る思いがする。又最近出来上ったという例の壁画は、まだ一般には観せる処まではいっていないようだが、以前私は観た事があるので想像は出来ると共に、今飾ってある写真だけを観ても、偲ばれるのである。

尚右法隆寺の外、私の最も感嘆に堪えなかったのは、彼の薬師寺の本尊仏であろう。之は幾千万言費すよりも、実物を観た方がいい、実に言語に絶する神技である。恐らく現代のどんな名人でも、到底此何分の一も難しいであろう。其他各寺にある物悉くと言いたい程名作ばかりであるから一々は略すとして、今更乍ら木彫に於ける日本の地位は、世界一といっても過言ではなかろう。今回私が廻って見た寺は、東大寺、薬師寺、法華寺、法隆寺、奈良博物館と、少し離れた宇治平等院の鳳凰堂、石山寺等であったが、右の鳳凰堂にある仏体は、藤原期の代表作で立派なものであった。そこで私が思った事は、此様に数ある古代仏教芸術を一堂に集めて、日本人にも外国人にも手軽に観られるようにしたら、どんなにか歓ぶであろうし、益する処大きいかを想像してみた事である。それと共に日本人が如何に古代から文化的に卓越せる民族であるかが充分認識されるであろう。其意味に於て私は何れ京都に一大美術館を建て、それを如実に現わしたいと今から期待しているのである。

以上は今回の紀行をザットかいたのであるが、此外に鎌倉時代の仏教彫刻に就ても一言いいたい事は、何しろ奈良朝以後暫く落着き状態であった仏教彫刻は、此頃に至って俄然盛り返し、絢爛たる様相を呈したのである。勿論巨匠名人続出し、彼の運慶と快慶等も此時の名人であった。そうして奈良時代のそれと異う処は、殆んど木彫ばかりで、特に彩色が大いに進歩すると共に、模様に切金を使い始めた事で、之が大いに流行し、其作品は今も相当残っているが、其巧みな技術は感嘆に価いするものがある。よくも此時代に此様な巧緻な物が出来たものかと、私は常に感嘆している。此切金模様の極致ともいうべき名作が箱根美術館に出陳されるから、観れば誰しも驚くであろう。

之で大体、今度の仏教美術の見聞記は終ったが、元来日本の彫刻は仏教に関する以外の名作は余りなかったようである。只有名なのは左甚五郎であるが、此人に関する興味ある伝説も随分あるが、其作品に至っては一般人の目に触れる物は殆んどないといっていい。只あるのは日光東照宮の眠りの猫位のものであろう。だが私は茲に推賞したい一人がある。それは今生きている人で、佐藤玄々という彫刻家である。此人は初めは朝山、次は清蔵といい、玄々は三度目の名であるが、其点珍しい人である。此人は今年確か八十三か四と思うが、古来稀にみる名人と思っている。私は此人の作品を好み傑作品と思う数点を美術館に出すつもりだから、観たら分るであろう。

栄156 1952年5月14日
三越の春日興福寺宝物展を観て

此間評判になった三越に於ける標題の如き展覧会を観たので、茲に感じた儘をかいてみるが、何しろ今から千二三百年も前の飛鳥、白鳳、天平時代の物ばかりなので、其時代によくも斯んな立派な物が出来たものと、実に驚嘆に価いするのみである。斯ういう時いつも不思議に思う事は、美術だけは進歩の埓外にあるとしか思えない。成程他の色々なものは文化の進歩につれて、随分目覚しい変り方をしているが、美術に限っては逆であって、殆んど進歩がないといっていい。成程今日の物でも少しの新しさはあるにはあるが、正直にいってどうも古い物には、断然及ばないのが世の定評である。

元来日本美術は、仏教美術が始まりで、其一番先に出来たのが、今から千三百年以前の推古時代頃からで、最初は支那の仏像を模して作ったものとしているが、支那の方の仏教美術は、今から約千五百年以前北魏時代が最も隆盛を極めたと共に優秀品も大いに出来たもので、今日六朝仏というのがそれである。其後唐代に到って、漸く我国へも他の文化と共に輸入されたが、恰度其頃は仏教興隆時代とて、茲に日本独特の仏教美術が生れたのである。而も彼の不世出の偉人聖徳太子の御偉徳と、美に対する天稟の才能と相俟って、絢爛たる仏教文化の華を咲かしたのである。彼の法隆寺の建築や、夫に附随する美術品は固より、其後に到って東大寺及び彼の大仏の建立等もあり、今も我国古代文化史上、燦として輝いているのである それから飛鳥、白鳳、天平、弘仁、藤原、鎌倉という順序で、漸次発達して来たが、何れの作品を見ても、本家の支那より優れていると思う。

そうして最初支那に学んで出来たものが、彼の推古の金銅仏であるが、之等も六朝仏よりも好くそれから乾漆、木彫の順に進んで来たので、今度の三越の展覧会は、其頃の乾漆ものが最も多かった。私は今度の展覧会を観ない内は、お寺の宝物だから観音、阿弥陀、釈迦、薬師、弥勒等の仏像が主なるものと思っていた処、驚いた事にはそれらの仏像は殆んどなかった。併し何といっても評判の阿修羅は大したもので、之も阿修羅という名前からして、物凄い鬼面人に迫るように思っていたところ、意外にも十七八の乙女の姿であったのには二度吃驚した。併し考えてみると阿修羅が改心して、仏になったのを表徴したものであろう。其他八大仏特に烏天狗や数体の童子は、乾漆作りで相当の名作であった。以上が主なもので、他に見るべき程の物は余りなかったようである。

此寺も藤原氏と縁の深い為でもあろうが、鎧、兜、刀剣類の多かったのもお寺らしくないと思ったが、見逃し得ないのは一個の蒔絵の手筥で、梨子地草花模様で、作行といい、時代色といい実に好いと思った。先づ展覧会の事は之位にしておいて茲で我国の仏教彫刻に就て少し書いてみるが、彼の金銅仏としては、最初の推古、白鳳時代に出来た物が最優秀であって世に推古仏といって珍重されるのは尤もだと思う 之等の作は支那とは異った味があり、気品の高いことも日本独特であろう 之等によってみても、日本人の美の感覚は、確かに世界一といっても過言ではあるまい。近頃外国に於てもそれが判って来たのは、先日洋行帰りの某美術関係者の人から聞いた話で心強い気がした 次に木彫であるが、之も天平前後の作品には素晴しい物があり、彼の有名な法隆寺の百済観音なども当時の作品で、之は定評があるから今更言う必要はないが、それから弘仁、藤原時代も相当好い物が出来たが、何といっても鎌倉時代であろう。此時代に入るや、木彫仏は飛躍的に隆盛を極め、彼の運慶はじめ名人、巨匠続出し、作品も多量に出来、今尚到る処に見受けるのである。  

其後足利期以後は、殆んど見るべきものが出来なくなって了った。僅かに徳川期に至って、鎌倉彫刻の模倣が相当出来た位である。そうして明治以後も名人とされる程の人は出ないようだが、只一人今尚健在である佐藤玄々斎(旧名朝山及び清蔵)は、古来稀に見る名人として、私は彼の作品を愛好している。今度の箱根美術館にも数点出品するから観れば分るであろう。そうして私がいつも思う事は他のものは別として、木彫に於ては日本は世界一と云ってよかろう。特に仏像の彫刻は不思議と思う位古い時代に立派な物が出来ている 此事を思うにつけても、私は一度優秀作品のみを選んで一堂に網羅し、世界中の人に見せたいと思っている。そうしたらどんなに日本文化が古くから卓越せるかが世界的に知れ渡るであろう。其様な訳で何れの日かは、私の手によって仏教美術の大展覧会を開催したいと思っている。それを観たなら日本には、昔から幾人ものロダンが居た事を発見するであろう。

栄150 1952年4月2日
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