本阿弥光悦 (1558-1637)

概説
 光悦は永禄元年(1558)に本阿弥家の分家に生れました。本阿弥家は、京の上層町衆として室町時代以来の伝統を持ち、俗に「本阿弥の三事」といわれる刀剣の磨蛎、浄拭、目利を家職としていました。その家職を通じて、光悦の父、光二の代より加賀前田家の食知をうけ、また永禄年間(1560年頃)より徳川家康との関係もあったようです。
宗二印
紙師宗二印
 光悦は元和元年(1615)の大阪夏の陣のあと、徳川家康より洛北鷹峰の地を賜わり、この鷹峰に趣味者、技術者とともに芸術村を創出していくことになります。光悦村の古図の中には、光悦の甥であり、光琳の祖父である尾形宗伯や、雲母引きの独特の紙を作り光悦に供給していたと思われる紙師宗二などの名前も見られます。光悦は、鷹峰拝領以前の慶長年間後半(1610年前後)に角倉素庵と共に嵯峨本の出版に関わるなど、芸術的活動を始めてはいましたが、鷹峰に移り、新しい鷹峰開発の必要のため、さらに明確に芸術家への道を進むことになるのです。
 光悦は、この芸術村を中心として、書を初めとし、絵画、陶芸、漆芸と、多くの分野で、文化を高めるために、独創的な芸術品を創成していきました。



本阿弥光悦筆 小倉色紙
光悦 職人歌合
本阿弥光悦筆 職人歌合断簡
光悦 西行
本阿弥光悦筆 和歌巻断簡
光悦の多くの芸術品には、それぞれに彼の独創的な芸術感覚を知ることができます。特に近衛信尹(1565-1614)、松花堂昭乗(1584-1639) とともに「寛永の三筆」といわれた光悦の書は、力強さ、自由奔放さ、筆線の肥痩など、変化に富み、すぐれた装飾性を示しています。
 彼の装飾性を重んじる書は、それまでの書とは全く異なったありかたです。工芸品にしても、それまでの同種のものには見られない、きわめて独創的な、装飾性を重くみた作品が多く見られます。光悦の作品を見ると、まさに、行くところ可ならざるなき多芸ぶりで、他の追随を許さない光悦独自の世界が広がっています。
 将軍徳川家光をして「天下の重宝」と言わしめた光悦の書は、 50〜60歳代に能書家として絶頂期に至ります。この時期の書には、 弾力性に富んだ、柔軟な、それでいて秀麗な、 まさに自信のほとばしる筆致が見られます。
 光悦は慶長17年(1612)頃に中風になったと思われ、光悦60歳代の作品には、一字一字の筆致にはぎこちない硬さが見られるなど、やや中風の影響が認められるものの、全体の流れるようなリズムと、 独特の肥痩のある情感ある筆致が見られます。
 光悦の最晩期、 70〜80歳代の作品には、中風の影響による硬さをはらみながらも自由奔放であり、 筆の勢いには緩急が見え、線の肥痩はより極端になっていく特徴が見られます。さらに筆路の渋滞や、筆線のふるえに老枯な味わいがでてきます。漢字とかなまじりの美しい調和のとれた書には、 絵画的要素がさらに強く見られ、一種の音楽的感覚さえ挿入されているようです。

工芸

本阿弥光悦作 竹一重切花入

本阿弥光悦作 椿螺鈿蒔絵棗
 光悦は、 書を能くするのみならず、 工芸面にも多大な才能を発揮しました。「不二山」 を最高峰とする陶芸は勿論、 刀を扱う職業柄刀を自在にあやつった彫刻、 またそれまでとまったく異なる蒔絵の技法など、 彼は、 まさに行くところ可ならざるなき多芸多才振りを存分に示しました。
 光悦蒔絵に見られる特徴は、先づ、それまでには考えられなかった様な、幅広く新鮮な題材を、装飾的に表現したことを挙げることができると思います。またその加飾材料の用い方に、斬新な鋭い感覚が見られることも特徴の一つで、螺鈿、 鉛、 粉留、金蒔絵の用法にもすぐれた表現力が見られます。
 一つの意匠を近観的に扱いながら、ただの写生に終わることなく、その対象物を図案的に構成したり、さらに文字さえも図案化してしまうところに光悦の自由な感性を見ることが出来ます。作品は重さと軽さ、鈍と鋭の鮮かに表された、光悦の独特のリズミカルな軽やかな雰囲気を作り出しているものが多くあります。