尾形乾山(1663-1743)
京焼の祖といわれる仁清に陶芸を学び、仁清の弟子などに助けられながら、元禄12年(1699)に京都鳴滝に窯を開いています。
初期には乾山が成型し、光琳が絵付をする兄弟合作を行ったようです。乾山の陶器は乾山焼として当初から評判の高い存在であり、鳴滝窯を閉じた後も、図案を他の窯に持込、焼かせていたようです。
享保16年(1731)に江戸に移り、入谷窯を開き、元文2年(1737)には下野佐野に招かれています。
乾山の絵は、光琳のような華麗さはなく、奇抜な、単純化した図案など、稚拙な中にも微笑ましい抒情的で深い味わいのある作品が多く残っています。
乾山の作品には、兄である光琳を意識した様子が見られるのが興味ぶかく思われます。
尾形光琳筆 色絵菊図角皿
尾形乾山作 色絵花篭図茶碗
尾形乾山筆 梅図
尾形乾山筆 黒髪山図
光琳を取り巻く人々の中で、忘れてはならない存在として、京焼の祖といわれ、当代随一のロクロの名手といわれた仁清(17世紀後半)がいます。
仁清作 芥子図徳利
仁清は、「藤絵文茶壷」で知られた日本の陶芸史の中で光彩を放つ陶芸家であり、光琳、乾山との関係が知られています。
仁清の高度なロクロの技術は、多種多様な形状、模様の行くとして可ならざるなき作風をもち、高雅典麗なことは他の陶器を切り放しています。中国や朝鮮の模倣ではなく、日本独特の物を作り、さわやかなあっさりとした粋な絵を見ることができます。